50年めの大きな玉ねぎ

日本武道館・京都タワーを設計した 建築家の祖父 『山田守』をめぐる コミックエッセイ

日本武道館・京都タワーを設計した
建築家の祖父『山田守』をめぐる 
コミック・エッセイです

 

タグ:東京オリンピック


先週の続きです

東海大学湘南キャンパス

2号館前を通り、

螺旋スロープが
ぐるぐると印象的な

3号館へ向かいます

IMG_3886


3号館を背に、

山田守の胸像
建っています。

IMG_5360

東海大学は、

戦前

政治・経済・法律
を学んだ人々に比べ
待遇が
低かった
理系技術者
の地位を

改善しようとした
技術者運
リーダー的存在であった
松前重義
が、

政府や財界から
お金を貰わないで、

技術者が独自で
技術者の学校を作ろうとした
のが

建学の始め
だった
そうです。

※参照:「東海大学建学の記」松前重義著

松前文庫No.24 記事
「戦前の技術者運動と山田守氏と建築と」
片山隆三




山田守は

逓信省(NTT・日本郵政の前身)
同僚となった
松前氏の考えに
共感し、


東海大学関連の
ほとんどの建物

設計料を取らず
設計し、


黎明期の大学に
鉄筋コンクリート造の
斬新なデザインの校舎を
建てることで

入学者の増加に貢献したり、


自らも教鞭を執り
後進の育成にも
努めたということです。




IMG_3835
像の後には
像建立協力者の名前が
沢山刻まれています。


東海大学の建学に
尽くしたとはいえ、

守もまた、
このような広大な敷地に
自分の思いを
反映させることができる
仕事を頂き、

建築家冥利につきる
晩年だったのではないでしょうか。




IMG_3824


IMG_3766

ところで

この像は、

長崎

日本二十六聖人記念碑
IMG_5826
(Wikipediaより引用)
有名な
彫刻界の大家、

舟越保武先生によるものです。
(背後に舟、とサインがあります)


舟越氏は
まだ若かりし時期
友人の紹介で
東海大学で山田守と出会い、
採用され、

建築学科で
デッサンを教えるようになったそうです。



守は

白樺などを通じ
当時の美術界にも
親しんでおり、

ロダンにも
強い
シンパシーを感じていた
そうです。

一方
舟越先生
かつてベストセラーとなった
高村光太郎訳の
ロダンの言葉」
を読み
彫刻をほとんど見たことがないのに
彫刻家になる意思を固めた

という逸話の持ち主なので
(※「巨岩と花びら」舟越保武)

二人はさぞ
ロダンの
芸術論で
話に花を咲かせたのでは
なかったでしょうか。


(ちなみに東海大学にある
別のモニュメント
星を仰ぐ青年の像
舟越氏によるもので、
こちらは長崎の二十六聖人像の
秀作とも位置づけられ、
同じ顔が聖人の一人に
採用されているそうです)






さて、私には
胸像について、
ひとつ疑問がありました。


私が聞いたり、
資料を読んだりして
掴んだ

山田守
という人物像は、

とにかく功名心の無い人で、

死後

自分が
胸像になり、
飾られる
などということは

むしろ
喜ばない
タイプの人間だったのでは?
ということです


IMG_3807


しかし、


舟越先生は
回想の中で、

山田守は

彫刻についても
鋭い批評力を
持っていた
と語っており、


温顔の下に秘められた
厳しい力と気品を
どう表現するかが
課題だった

語っていらっしゃいました。


  
それを知り、

また、

山田守の一生を
調べ、

力ある後輩に
仕事や経験の機会を
どんどん与えていたらしい
姿を
知った今、



改めて
胸像と

対峙して
見てみると…



芸術を愛し、

奮闘する同士への
エールを欠かさなかった
守自身が

惚れ込んだ才能である
舟越先生の
作品として、

自分の姿を提供したことに、


大きな誇りを
感じている
ように
見えてきた

でした







(つづく)


次回は3号館に登ります!

⭐️お知らせ⭐️


IMG_5830
でお世話になった
熊本ビル部さんの
熊本の建築の魅力を伝える
展示会が

くまもと森都心プラザ図書館
7月8日(日)〜31日(火)まで
開催中されています


Y子の熊本レポも
ページに落としたものを
展示させて頂くことになりました
IMG_5831
私の漫画はブログと同じなので
アレですが、

熊本ビル部さんの
女性目線の
親しみやすい展示で、

熊本が

いかに
熊本城を中心とした

豊かな建築群に
恵まれた場所か

より沢山の方々に
周知されたら
幸いです!

近郊の方々、ぜひ
会期中
お立ち寄り下さい!
(o^^o)



東海大学湘南キャンパス
H棟解体を惜しむ会  7月19日(木)
懇親会のみ予約要
IMG_5672


山田守  

旧千住郵便局電話事務室
(1929)
docomomo japanに
認定されたそうです
🎉
ありがとうございます


 
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【少年篇】
(岐阜での生育歴)
最終回です
山田12-5−4
山田12-6−1身内が?
山田12-6−2アキとやら
山田12-6−3建築に来るといい
山田12-6−4図画の時間があって
山田12-7−1内田
山田12-7−2お前なら強

山田12-7−3都合のいい学問
山田12-7−4西洋どんな
山田12-8−1まてよブログ
山田12-8−2高校では
山田12-8−3お疲れ様
山田12-8−4岐阜最後



時間がかかってしまいましたが、

山田守が

建築の道に進んだ流れ


親族から聞いた話

資料に残された
人々の経歴など
を結びつけ、

推察し、

このように描いてみました。
(事実を元にしたフィクションということで
よろしくお願いいたしますm(_ _)m)



守の高校時代の親友
新田氏
によると、


守は
中学・高校
熱中して
絵を
描いていたが、

とくに建築の準備として
描いていたわけではなかった。


進学を決める際、

建築の予備知識があった
訳ではないのに、

悩まず建築学科を
志望した。


理由

兄・静が通っていたから。

とだけ語った。

当時の様子を
伝えてくれています




守が生まれる3年前におきた

濃尾大地震により

西濃地域にも導入されはじめていた
レンガ造の
建物は
壊滅しており、


ちょうど
レンガの耐震補強、
あるいは
鉄筋コンクリートへ移行する
模索期にあたっていた
当時、

木造以外の
新しい建物は
建っておらず、

生活圏で
憧れに値する
最先端の
西洋建築物を
見ることはできなかった
ようです。



また

当時愛読していた
雑誌などでも、

ようやく
絵画が
紹介され始めたくらいで、

守に
西洋建築の魅力を
気づかせるものが

読めていたとも
思えません。



それらのことから、

西洋建築物をつくる
進路を
示せたのは

この静の存在しか
なかった

言ってよいのではないかと
思われるのです。




守より
13年も早くに、

創成期ゆえ
実態が分かりにくかった
建築学科に
入り、

色々な経験をした

静の
導きがなければ


山田守が

日本のモダニズム建築の
パイオニア

言っていただける
位置
つけることは
なかったかもしれません


そんな、
多大な影響を
与えてくれた
について

守は多くを
語り残しておりません。


理由は、
やはり

当時は
スキャンダラスな目で
見られた

芸者さんと一緒になった
顛末を、


無理言って嫁に来てもらった
資産家出身の

祖母に

あえて
話したく
なかったのかも
しれません。



しかし、
この当時の
恋愛結婚は

単なる
痴話話
という訳ではなく、

自分の自由を
叶える

自己実現の
象徴
としての
意味も
強かったようです。

(見合いをせずに
嫁をもらった。
武勇伝のように語る人も
多かったとか。)


これは
あくまで
私の推測ですが、

この後、
比較的
若くして亡くなる
静は、

自分は

自己実現の
エネルギーを
恋愛結婚で
使い果した
感じがあり、


その頃活躍を始めた

親友の
渡辺節さんの
様子などから、

これからの
建築界の盛り上がりを

予感することが出来、


建築界で
自己実現して
活躍する
希望については

絵画に熱中していた
弟に託した
部分があった、

解釈するのは
飛躍が過ぎるでしょうか?




この後

高等学校を
卒業し、

無事
東大建築学科に
受かった
山田守は

静の紹介で、

静の同期で
既に
東大建築学科の
教授になっていた

内田祥三氏に

東京の保証人になって
もらいます。

それ以降、

建築面はもちろん、

ある悩み(笑)
まで相談するなど、

多大なるお世話に
なることになります。



IMG_5607
内田祥三先生


鉄筋コンクリートの研究や

木造モルタルによる防火など、
防災に関して尽力され、
日本の建築界に
大きく貢献した
巨匠。

元東大総長。


学生闘争の舞台となった

東大安田講堂
をはじめ

IMG_5630


今も
東大には

内田ゴシックと呼ばれる

内田祥三先生の設計による
美しい建築物が
多く
残されています。


そんな
美しい建物を遺した
内田先生でも、


当時
絵画的な要素が
濃かったという
東大建築学科の授業に対し、


絵をほとんど描いたことがないまま
入学してしまい

面食らい


学校をやめようかと
悩むほどだったという

エピソードが

残されています。


【岐阜編の最後に…】

ちょっと早出しですが、

山田守と寿は

内田祥三先生ご夫妻に
仲人
をしていただきました。

内田先生 結婚写真 名前入り



そして、
残念ながら
この式に
静兄は
出席していません。


なぜなら
守が結婚する
数年前に
亡くなったからです。


守が着ている
タキシードは

静兄が

アきさんと
結婚した時に

あつらえたもの 
だということです
















参考  

日本近代建築家列伝

レポート濃尾地震の影響

建築家 岩本禄


内田先生肖像と
安田講堂の写真は
Wikipediaより引用




少年篇(岐阜篇)は
これでおしまいです
m(_ _)m


次回から
いよいよ
青春篇!

いざ初恋金沢へ!

少しキャラ設定など
準備の時間取りますが、

頑張りますので

是非これからも読んでやってください!



次の更新につづきます!



















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6月13日

山田守の命日
以下のような
絵日記をアップしましたところ



IMG_5511



色々な
反響を頂きました

ありがとうございました







普段は公開していない

桜の季節に撮影した

山田守自宅からの
庭の眺め
動画
を貼ってみます


よかったらご覧下さい


IMG_5513

昭和43年(1968)頃
山田守庭にて。
背後の植栽部分は
まだ育っていず、
パサパサしています。
(Y子と兄)




2017年春撮影↓


2階から撮影


だと
このあたり

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一階に見えるのは
蔦珈琲店














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山田12-3−4
山田12-3〜ラスト
山田12-4−1
山田12-4−2
山田12-4-3


山田12-4-4-2



山田12-5−1
山田12-5−2
山田12-5−3

山田12-5−4






つづく










以前の話では

山田守
故郷の自然によく親しみ

それが
守のつくる
建物にも
大きな影響を与えたのではないか?

ということを
描いたのですが、


その割に

守は
故郷の話を

晩年になるまで
ほとんど
していないようなのです。



それは

故郷の農村の

古い因習や
しきたり
縛られた
生活から抜け出して

新しい時代に
向かっていきたい

という
思いも
人一倍強く

それが

故郷に対する
反発心と
なっていたから
なのではないかと

思われるのでした。

(最後の写真は
実際
山田家に遺された
当時の写真ですが、

父 弘三が気合い入れて
撮ってるのに
守だけ
そっぽを向いてます^ ^


また

当時の世相として

明治の中頃より

漱石ら
文学者を中心に

近代的自我
の確立

模索されていた
背景もありました。


と言うと
難しく感じられますが.

ようするに

江戸時代までは
お上が
生き方を
決めてくれていたのが

明治維新とともに
それが
無くなってしまい

自分とは何か?
よい生き方とは何か?

それぞれ
考えなければ
ならなくなった

ということです。


日本は
黒船が来て

外圧がきっかけで

一気に西洋化して
国力を高めようと
した
訳ですが

それを支える
精神的な
ものの考え方
西洋の考えを
ベースに
取り入れようとしたのです。




とはいえ
当時
近代的自我の確立
などの
意識を持てるのは

まだまだ
全体の人数から
見れば

ほんの少数の

高等教育を
受けた

学生などだけでした。



守は
地方の
田園地帯の
出身でしたが、

中学に通うことが出来、

文学好きから
近代的自我の
考え方に
目覚め始めた時期


自分の内面の希望に忠実に生きる
近代的自我を体現した
東大出の
目の当たりにし

その後の
生き方にも

影響を受けたに
違いない
と思われる
のでした。



これ以降

守は

時に
古い勢力からの
抵抗に遭いながらも

常に

自分の内面を見つめ、

良いと思ったことを
実現させていく
馬力に溢れた
人生を送ります

それもまた
この
故郷に対する
反発心を
バネにして

進んで行った
ようにも
思えるのでした。



守らが起こした
日本初の建築運動
分離派建築会

今までの
決まった様式で
作っていく
建築から分離し

自分たちの内面から
あふれ出る
創作意欲を
表現できる

自由な建築物
作っていこう!

という
主張の活動でした。

まさに近代的自我を
確立しようと
奮闘した
若者たち

建築に対して
その
考え方を打ち出した
活動
言えるのではないでしょうか。


6分離派
↑※大正9年です!後で直します
分離派建築の代表作といえばこんなのとか↓
IMG_5206
分離派建築会メンバー 瀧澤真弓氏 の作品です
山の家↑(模型のみのようです)


この運動以降
日本で
様々な形態の
建築物が
作られるように
なっていったようです

(それ以前は西洋から移植した
バロック様式とか
ルネサンス様式とか
型がある建物が主流でした)



【以下メイキング話】

さて、この写真…

私は
資料と
伝え聞いた事柄と

この一枚の写真から受ける
登場人物のイメージを

ミックスさせて 

この話を描いてみたのですが…
山田12近代自我写真わいこ1
最初は誰が誰だか分からなかった
この写真も
見つめていくと
様々なドラマが読み取れる気がしてきて
とても楽しかったのです
(^ω^)
山田12近代自我写真1

私の似顔絵は似てないのは
さておき、
気がむいたら
拡大して
元ネタの世界を
お楽しみ下さいネ(^^)


※ちなみにこの家は
本家の跡取りの方の
ご尽力により

まだ変わらぬ姿で
保存されています

住む人もなく
保存されているそうで
守の生家として
見てみたい人が集まったら

公開しても良い
とのお考えもあるそうです

興味ある方いらっしゃいましたら
コメント欄や
SNS
などでお知らせ頂けたら
幸いです


公開実現は
可能かどうか
全く白紙ですが
ご希望の数によっては
本家の方に
相談させて頂きます







次の更新につづきます!

(次回で本当に岐阜篇の最終回です!)


















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