50年めの大きな玉ねぎ

日本武道館・京都タワーを設計した 建築家の祖父 『山田守』をめぐる コミックエッセイ

日本武道館・京都タワーを設計した
建築家の祖父『山田守』をめぐる 
コミック・エッセイです

 

タグ:山田守孫






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山田守が
日本の建築史
最初に
現れるのは、

分離派建築会
という

日本初の
近代建築運動を起こした
メンバーの一員としてです
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東京都市と建築の130年 より


この運動は、

建築界で

建築物は 
強い構造体であれば良い
とする流れが
強くなり始めていたところ、

いや、
建築も芸術でなければならない
表現の一つであるべきだ、
などと
うたった
活動で、

しかも
建築の模型などを
百貨店で展示し
話題を集めた活動だった
ということです。




建築史だけを読んでいると、
なぜ
そのような運動が
突然現れたのか?
唐突な感じがするのですが、

山田守をはじめ、
分離派メンバーは
絵画好きな者の集まりで、

当時の絵画の
流派のせめぎ合い
見ていれば、

その流れを
建築でも起こそう、
と考えたことは

自然な流れだったように
思えます。


また、

山田守が青春期を過ごした
大正時代前半は、
好景気の後押しもあり、


ついこの前の
江戸時代には無かった

自分という存在(自我)や
自由

西洋から学ぶだけでなく、

自分の中に落とし込んでいこう
とする気運が高まった時期で、

様々な分野で
古い考え方(旧派)
新しい考え(新派)
の対立が起きていました。


自己を
大切にするという考えは、

芸術による表現意識も
高めましたが、

人権意識の高まり
にもつながり、

大正デモクラシーの
風潮を作っていき、

国や資本家など
支配側の人間に対して

市民側が
権利を主張してゆく
大きな流れが
起こりました。


分離派建築会
分離
とは

ウィーンで起きた
ゼセッション運動から
きているようですが、

過去の
貴族的な建築物の
様式から

分離して
向かった先は

形態の芸術的自由
であるばかりではなく、

産業革命によって
大量に生まれた
都市の
市民のための建物
をつくることでも
ありました。


山田守の人生は、
高校時代から
すでにこのようであったように、

常に
何かしらの
新しい考えに挑戦し、

その度に
何かしらの
壁に
立ちはだかられていた
人生だったように思います。


その壁の向こうに、
山田守は何を見ていたのでしょうか?


自己の信じた美しさを
表現する

ことと

使う人々(市民)の
居心地に
寄り添ったもの

を目指していたのでは?

私には思えるのですが、

それは、

このような
大正時代の
青春が
守に刻みつけた
感性であったのでは?

考えながら
この稿を
描いてみています


当時の文展を巡る絵画の状況


横山大観先生は
日本画家ですが
若い頃は洋画からも影響された
アバンギャルドな人だったんですね〜

大観先生の前に
立ちはだかった無理解の壁は
ハンパない高さで、
貧しさのあまり
最初の妻子が亡くなる
経験をされたとか…

祖父も
ヒーロー視するほどでは無かったようですが、
同時代の大家として
注目していた画家の一人だったようです。

横山大観が
生涯をかけて描いた
多くの富士山の絵は
よく見ており、

日本武道館の屋根に
富士山をモチーフにしたとき
引き合いに出したりしていました。

IMG_9455













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3月3日(日)前後を予定しており
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つづく





【今回の制作あれこれ】

山田守の恋バナに
サクッと話を進めたかったのですが、

守祖父が
充実した
青春モラトリアム期を送っていた
大正3年
といえば、

開始された
①第一次世界大戦
についてと

②動きの激しかった
美術界

について
触れないわけにはいかない
かな

と思い、
この回を描いてみました。


①第一次世界大戦は
当初
海外でも日本でも、

多くの人が
一年以内に終わると
楽観的に考えていたそうです。

しかし、産業革命後の
技術革新
武器にも及び、

戦線の膠着、長期化、
死亡者の桁外れの増加
などから
世界中を震撼とさせました。

山田守の
建築世界への入り口では
第一次世界大戦が、

社会、経済、
人間の考え方、感じ方など
幅広い方面に
強く
影響を与えていたのです。


②美術界については、また。




今回、山田守が立ち上げた
四高洋画会
からは、
分かっているだけで他にも
二人の建築家
が生まれています。
お二人とも
山田守に感化?されて
東大建築学科に
進んだのだとか。

石川純一郎先生
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竹中工務店に入社し、活躍。

代表作
朝日ビルディング(1931・大阪)
IMG_9343
※写真は竹中工務店HPより引用させて頂きました


大内秀一郎先生
大内秀一郎 探す

分離派研究会に
遅れて参加する。

「欧州近代建築の主潮」(大正12年)などの
欧州近代建築関連の著書あり。

大阪市立電気科学館(1937)
の設計者の一人とされる。
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※写真は電気科学館のWikiより引用

ちなみにこの建物は
手塚治虫先生が
少年期
足しげく通う
お気に入りスポットだったそう。
日本初のプラネタリウムがあったとか。

実は 私の兄秀一郎
という名前で、
どうやらこの方から
とった名前らしいのですが、

その割には
この
大内秀一郎さんについては
祖母も知らず、
どんな人か全く
伝わっていないのです。

守祖父は、兄が生まれた時
男の孫が生まれ
たいそう喜び、

大変仲良くしていた
後輩?部下?の
名前を勝手につけた、

とだけ伝わっているのです。

祖父がそんなに
惚れこんだほど
好人物だったらしい
大内さん
どんな人だったか、
この漫画を描き、
調べる中で

どこかで
知ることができたらいいなぁ
と思っています…


北岩松さん家の碁会所

前回描きました
今もあるお菓子屋さんの
先代、
北岩松さん。
無くなってしまったのですが、

当時ご近所の人々が
碁会所として
出入りしていた、
北さんご自慢の
お座敷が
まだ残っているとのこと。IMG_9338
なんでも床板
50回以上かけた
拭き漆
なのだとか。

当時を偲ばせる
珍しいお部屋を
見せていただいたので
漫画にも
登場して頂きました
(^^)


【編集後記】

先日より、
何か、いつもより
アクセスが多いな?
と不思議に思っていたら

大ベテランの
素敵な建築家
秋山東一先生に
ご紹介記事を描いて頂いて
いたようです


守祖父も
美術の流れの影響の大きい
建築家だと思い
この話を描いていますので、

岡倉天心率いる
東京美術学校の
後継校
東京藝大ご出身の
秋山先生に
お言葉を頂き
励まされました

ありがとうございました

先生に言及頂いた
フランス圏のマンガ
バンド・デシネ
少しでも近づけるように
頑張ります〜

絵が下手だからキビシイが〜

そうそう

海外には
グラフィック・ノベルと呼ばれる
漫画分野もあるみたいなのを
この機会に
バンド・デシネ調べているうち
知りました

グラフィック・ノベル!
なんて
素敵な響き!

(о´∀`о)
ナンカ言ッテルゲド
言ワシトイテ

次の更新は
2月13日(水)前後を予定しており
ます














 
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山田金沢6さむね

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つづく







山田守の
金沢の旧制高校時代は
建築家になる前・・・
どころか

建築家を正式に?志す
以前の話
なので、

なかなかまどこっろしい部分
が多く、申し訳ありません


ですが、
山田守が大学卒業時に
書いた
分離派宣言の
文章を読むと、


建築の実務に入る以前から

すでに建築に対する
おおよその考え・完成が
できあがっていたよう
なので、

なぜその考えに至ったか?
を導き出すためもあり
このあたりも
ひとつひとつ描いてみています

(建築ファンの方
おつきあいいただきありがとうございます)




今回描きたかったこと

❶山田守の新しモノ好き・・・ローラースケートのエピソード

Y子の父母の仲人までしてくださった
新田さんによると
山田守といえば金沢にローラースケートを持ち込んで
流行らせた
ほど
新しいモノ好きだったということ・・・


そのローラースケートって
どっから来たの

と長年疑問に思っていたのですが、
今回調べてみると、


何と例の
守が大好きだったという
漫画13−1 金沢青春篇 第一話
雑誌『白樺』3号(明治45年)に、

同人の里見さんという人が
ロダン展の手伝いには来ないのに
浅草のルナパークのローラースケートには
早起きして出かけてる!

文句を言われている(笑)
記事が載っていたようです


守はそれを読んで
面白そうだと思っていたところ、
この漫画の前年の
大正2年に子供たちの間で流行したそうで、
手に入れやすくなったものを
いち早く取り寄せ、
得意満面で
金沢で披露したのではないでしょうか?

(あくまで想像ですが。)


岐阜の地主の息子である
守が
日本の近代建築のパイオニア
となったのも、

この新しいカッコ良さそうなものに
敏感な性格のため
だったのでは?
というところに
つながるかと思い、

こんな風に
描いてみました。

(このルナパークっていうのも
調べるほどにツボにはまり、
またどこかで描いてみたいです)


❷友情出演の 北岩松(きた いわまつ)さんについて

例の祖母のテープの中で、
祖母が神保家のあった場所を
くわしく語っていた
ので

跡地をたずねてみると
一軒の和菓子さんが。

おそるおそる神保家について
何か知らないか、と
聞いてみると、

なんとそのお店は
神保八十吉から土地を買い、
現在まで営業されている
とのことで

神保家がいかに栄えていたか
などを
私と同年代の
ひ孫にあたる方々も
伝え聞いて
知っていらしたのです!


IMG_0966

和菓子屋さんの先代は
北岩松さんという
織物工場で一時代を築いた
資本家で

神保八十吉とも親友で
ご近所の強烈資本家旦那衆として
闊歩する姿が
有名だったそうな。

・・・・曽祖父の話が
いまだに伝えられていたことに

金沢という場所の変わらない時間、
伝統を継承するお土地柄を
思い知った
瞬間でした!



山田守は
四高洋画会を立ち上げるべく
奔走中ですが、

この活動は
のちに
分離派建築会を起こす
前哨戦?的
なものに
なったのではないかと
私には思われます。

分離派建築会も
色々な支援が
差し伸べられていたようですが

金沢でも
商工会議所などの支援があったとのことで

それらの人脈は
この理解あふれる大店・
神保商店にて
培われたとしても
不思議ではない
と思い、

今回はこんなような
わやわやした
人物群の話を描いてみました。

(読みにくかったら
ごめんなさい!)



→菓子匠 虎彦さんのリンクはこちら
お菓子もとても美味しいので
金沢武家屋敷あたりにお越しの際には
立ち寄られては
いかがでしょうか




❸警察署の建物も格好よかった件

建築マンガと銘打ってるのに
建築の話が全然出て来ないので

最後のコマに
大正元年にできていた
木造洋風の警察署

描いてみました

四高からも程近い場所にあったので
まだ建築に目覚めていない
守祖父も
必ず目にしていたはず。

西洋風の建物が
移植されていた時期のため
警察署がかわいい!
のが
個人的にはツボでした(´∀`*)


警察の建物にも
東大建築学科卒の建築技師は
何名も
関わっていたようで

岐阜編でお騒がせしていた
山田静兄の
仲良し3人組の
渡辺節さんではない方の方・・・
竹内六蔵さん
IMG_5144


築地警察署の技師として
働いていたようです。→節先生のこと
竹内六蔵さんはのちに鹿島建設の副社長になられ、
窮地にあった山田を
救ってくれることになります)


まとまらずすみません
ご意見ご感想などいただけたら
今後に活かせるかと思います

今年もよろしくお願いいたします



次の更新は
1月27日(日)前後を予定しております














 
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金沢5−2−3金沢5−2−4金沢5−3−1金沢5−3−2
金沢5−3−3




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金沢5−4−1
金沢5−4−2
金沢5−4−3
金沢5−4ー4
金沢5−5−1
金沢5−5−2
金沢5−5−3
金沢5−5−4
つづく

曲『戦友』youtube→


旧制高校は
学校によっては
全員寮に入る学校も
あったようですが、

四高は
地元の生徒は
自宅から通っていた
ようです。

神保家は
学校からも近く、
裕福な商家で余裕もあり、

自宅生・寮生の両方が集う
学生の憩いの場
となっていたようです



旧家に入婿を迎えていた
母・柳子は
家父長制で女性の 
発言力が制限されていた
時代においても、
 
文化に対する意識の高さと
社交性のある女性で、

神保家のカラーを
文化的なものに
していてくれていた 
ようなのでした。


そこで山田守は
何を見、
何を吸収していったのでしょうか?


そのようなことを
祖母のテープ
向井覺先生の本
伝え聞いた話
当時の時代背景

などから
考え、

このように描いて
みています





2018年12月10日
NHKBS−1にて
京都タワーをつくった男
山田守
という番組を放映していただきました!

IMG_8125


批判や誤解の多かった
京都タワーという建物を
真っ向から
建築家の思いを通して
見直していただけた番組となっていて
感激いたしました


番組スタッフ皆様、
ご覧いただいた皆様

そして
いつも山田守研究で
お世話になっております

大宮司勝弘先生はじめ、
取材をお受けくださった方々
厚く御礼申し上げます




これから年末のドタバタに突入・・・
作画・更新作業が
できにくいので、

神保家の大合唱と
ともに

年内の更新は
今回が
最終とさせていただきます



2019年
年明け更新は
1月13日(日)頃を予定しております



本年
拙作を
ご愛読いただき
ありがとうございました
😊


来年は
難しいシーンが
多くなるので
不安もいっぱいですが、

取材を重ねて
少しでも
いいものをお届けできるよう
精進いたします!



来年も
50年めの大きな玉ねぎ

どうぞよろしくお願いいたします!


Y子不思議な子正方形180180

2018.12.16
YY








 
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