50年めの大きな玉ねぎ

日本武道館・京都タワーを設計した 建築家の祖父 『山田守』をめぐる コミックエッセイ

日本武道館・京都タワーを設計した
建築家の祖父『山田守』をめぐる 
コミック・エッセイです

 

2018年06月


【少年篇】
(岐阜での生育歴)
最終回です
山田12-5−4
山田12-6−1身内が?
山田12-6−2アキとやら
山田12-6−3建築に来るといい
山田12-6−4図画の時間があって
山田12-7−1内田
山田12-7−2お前なら強

山田12-7−3都合のいい学問
山田12-7−4西洋どんな
山田12-8−1まてよブログ
山田12-8−2高校では
山田12-8−3お疲れ様
山田12-8−4岐阜最後
(金沢篇は準備中です・更新通知は→こちらより)

(熊本レポもぜひ→)


時間がかかってしまいましたが、

山田守が

建築の道に進んだ流れ


親族から聞いた話

資料に残された
人々の経歴など
を結びつけ、

推察し、

このように描いてみました。
(事実を元にしたフィクションということで
よろしくお願いいたしますm(_ _)m)



守の高校時代の親友
新田氏
によると、


守は
中学・高校
熱中して
絵を
描いていたが、

とくに建築の準備として
描いていたわけではなかった。


進学を決める際、

建築の予備知識があった
訳ではないのに、

悩まず建築学科を
志望した。


理由

兄・静が通っていたから。

とだけ語った。

当時の様子を
伝えてくれています




守が生まれる3年前におきた

濃尾大地震により

西濃地域にも導入されはじめていた
レンガ造の
建物は
壊滅しており、


ちょうど
レンガの耐震補強、
あるいは
鉄筋コンクリートへ移行する
模索期にあたっていた
当時、

木造以外の
新しい建物は
建っておらず、

生活圏で
憧れに値する
最先端の
西洋建築物を
見ることはできなかった
ようです。



また

当時愛読していた
雑誌などでも、

ようやく
絵画が
紹介され始めたくらいで、

守に
西洋建築の魅力を
気づかせるものが

読めていたとも
思えません。



それらのことから、

西洋建築物をつくる
進路を
示せたのは

この静の存在しか
なかった

言ってよいのではないかと
思われるのです。




守より
13年も早くに、

創成期ゆえ
実態が分かりにくかった
建築学科に
入り、

色々な経験をした

静の
導きがなければ


山田守が

日本のモダニズム建築の
パイオニア

言っていただける
位置
つけることは
なかったかもしれません


そんな、
多大な影響を
与えてくれた
について

守は多くを
語り残しておりません。


理由は、
やはり

当時は
スキャンダラスな目で
見られた

芸者さんと一緒になった
顛末を、


無理言って嫁に来てもらった
資産家出身の

祖母に

あえて
話したく
なかったのかも
しれません。



しかし、
この当時の
恋愛結婚は

単なる
痴話話
という訳ではなく、

自分の自由を
叶える

自己実現の
象徴
としての
意味も
強かったようです。

(見合いをせずに
嫁をもらった。
武勇伝のように語る人も
多かったとか。)


これは
あくまで
私の推測ですが、

この後、
比較的
若くして亡くなる
静は、

自分は

自己実現の
エネルギーを
恋愛結婚で
使い果した
感じがあり、


その頃活躍を始めた

親友の
渡辺節さんの
様子などから、

これからの
建築界の盛り上がりを

予感することが出来、


建築界で
自己実現して
活躍する
希望については

絵画に熱中していた
弟に託した
部分があった、

解釈するのは
飛躍が過ぎるでしょうか?




この後

高等学校を
卒業し、

無事
東大建築学科に
受かった
山田守は

静の紹介で、

静の同期で
既に
東大建築学科の
教授になっていた

内田祥三氏に

東京の保証人になって
もらいます。

それ以降、

建築面はもちろん、

ある悩み(笑)
まで相談するなど、

多大なるお世話に
なることになります。



IMG_5607
内田祥三先生


鉄筋コンクリートの研究や

木造モルタルによる防火など、
防災に関して尽力され、
日本の建築界に
大きく貢献した
巨匠。

元東大総長。


学生闘争の舞台となった

東大安田講堂
をはじめ

IMG_5630

今も
東大には

内田ゴシックと呼ばれる

内田祥三先生の設計による
美しい建築物が
多く
残されています。


そんな
美しい建物を遺した
内田先生でも、


当時
絵画的な要素が
濃かったという
東大建築学科の授業に対し、


絵をほとんど描いたことがないまま
入学してしまい

面食らい


学校をやめようかと
悩むほどだったという

エピソードが

残されています。


【岐阜編の最後に…】

ちょっと早出しですが、

山田守と寿は

内田祥三先生ご夫妻に
仲人
をしていただきました。

内田先生 結婚写真 名前入り



そして、
残念ながら
この式に
静兄は
出席していません。


なぜなら
守が結婚する
数年前に
亡くなったからです。


守が着ている
タキシードは

静兄が

アきさんと
結婚した時に

あつらえたもの 
だということです
















参考  

日本近代建築家列伝

レポート濃尾地震の影響

建築家 岩本禄


内田先生肖像と
安田講堂の写真は
Wikipediaより引用




少年篇(岐阜篇)は
これでおしまいです
m(_ _)m


次回から
いよいよ
青春篇!

いざ初恋金沢へ!

少しキャラ設定など
準備の時間取りますが、

頑張りますので

是非これからも読んでやってください!



次の更新につづきます!



















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山田12-3−4
山田12-3〜ラスト
山田12-4−1
山田12-4−2
山田12-4-3


山田12-4-4-2



山田12-5−1
山田12-5−2
山田12-5−3

山田12-5−4






つづく









以前の話では

山田守
故郷の自然によく親しみ

それが
守のつくる
建物にも
大きな影響を与えたのではないか?

ということを
描いたのですが、


その割に

守は
故郷の話を

晩年になるまで
ほとんど
していないようなのです。



それは

故郷の農村の

古い因習や
しきたり
縛られた
生活から抜け出して

新しい時代に
向かっていきたい

という
思いも
人一倍強く

それが

故郷に対する
反発心と
なっていたから
なのではないかと

思われるのでした。

(最後の写真は
実際
山田家に遺された
当時の写真ですが、

父 弘三が気合い入れて
撮ってるのに
守だけ
そっぽを向いてます^ ^


また

当時の世相として

明治の中頃より

漱石ら
文学者を中心に

近代的自我
の確立

模索されていた
背景もありました。


と言うと
難しく感じられますが.

ようするに

江戸時代までは
お上が
生き方を
決めてくれていたのが

明治維新とともに
それが
無くなってしまい

自分とは何か?
よい生き方とは何か?

それぞれ
考えなければ
ならなくなった

ということです。


日本は
黒船が来て

外圧がきっかけで

一気に西洋化して
国力を高めようと
した
訳ですが

それを支える
精神的な
ものの考え方
西洋の考えを
ベースに
取り入れようとしたのです。




とはいえ
当時
近代的自我の確立
などの
意識を持てるのは

まだまだ
全体の人数から
見れば

ほんの少数の

高等教育を
受けた

学生などだけでした。



守は
地方の
田園地帯の
出身でしたが、

中学に通うことが出来、

文学好きから
近代的自我の
考え方に
目覚め始めた時期


自分の内面の希望に忠実に生きる
近代的自我を体現した
東大出の
目の当たりにし

その後の
生き方にも

影響を受けたに
違いない
と思われる
のでした。



これ以降

守は

時に
古い勢力からの
抵抗に遭いながらも

常に

自分の内面を見つめ、

良いと思ったことを
実現させていく
馬力に溢れた
人生を送ります

それもまた
この
故郷に対する
反発心を
バネにして

進んで行った
ようにも
思えるのでした。



守らが起こした
日本初の建築運動
分離派建築会

今までの
決まった様式で
作っていく
建築から分離し

自分たちの内面から
あふれ出る
創作意欲を
表現できる

自由な建築物
作っていこう!

という
主張の活動でした。

まさに近代的自我を
確立しようと
奮闘した
若者たち

建築に対して
その
考え方を打ち出した
活動
言えるのではないでしょうか。


6分離派
↑※大正9年です!後で直します
分離派建築の代表作といえばこんなのとか↓
IMG_5206
分離派建築会メンバー 瀧澤真弓氏 の作品です
山の家↑(模型のみのようです)


この運動以降
日本で
様々な形態の
建築物が
作られるように
なっていったようです

(それ以前は西洋から移植した
バロック様式とか
ルネサンス様式とか
型がある建物が主流でした)



【以下メイキング話】

さて、この写真…

私は
資料と
伝え聞いた事柄と

この一枚の写真から受ける
登場人物のイメージを

ミックスさせて 

この話を描いてみたのですが…
山田12近代自我写真わいこ1
最初は誰が誰だか分からなかった
この写真も
見つめていくと
様々なドラマが読み取れる気がしてきて
とても楽しかったのです
(^ω^)
山田12近代自我写真1

私の似顔絵は似てないのは
さておき、
気がむいたら
拡大して
元ネタの世界を
お楽しみ下さいネ(^^)


※ちなみにこの家は
本家の跡取りの方の
ご尽力により

まだ変わらぬ姿で
保存されています

住む人もなく
保存されているそうで
守の生家として
見てみたい人が集まったら

公開しても良い
とのお考えもあるそうです

興味ある方いらっしゃいましたら
コメント欄や
SNS
などでお知らせ頂けたら
幸いです


公開実現は
可能かどうか
全く白紙ですが
ご希望の数によっては
本家の方に
相談させて頂きます







次の更新につづきます!

(次回で本当に岐阜篇の最終回です!)


















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山田12-2−1
山田12-2−2
山田12-2−3

山田12-2−4
山田12-3−1
山田12-3−2
山田12-3−3
山田12-3−4





つづく







白樺』の影響
IMG_8498
「白樺 美術への扉」より

今日私たちが
教科書などで
武者小路実篤らの
「文芸同人誌」
と習うことが多い

「白樺」
ですが、

明治末期に発刊された
当時、

若者中心にあちこちで

自己の内面を自由に表現する
表現
が模索されている世相の中、


美術面でも
図版という
ビジュアルにより

セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン
ロダン

といった巨匠の、
今までの美術の枠から
自由な表現をしている
作品

紹介した
影響は

色々な分野に及んだ

言われています

✴︎

特に
白樺は

学習院大学生ら
中心となり
作っていた
同人誌

だったので、

漫画でも触れた
ロダンと交流できた際の
同人たちの
熱狂の様子などは

やはり学生だった
読者に

興奮と
強い共感を生み、

出版社により編集された
他の雑誌とは
違う

独特の高揚感が漂う

特殊な存在
だったようです。



山田守も
早いうちから
この雑誌の大ファンで、

一号から集めていた
との証言が
祖母より伝わっています。



守が
学生仲間と6人で結成した

日本初の建築運動
かつ
日本のモダニズム建築の
出発点
とも言われる

分離派建築会

白樺を
愛読していた
堀口捨己氏
滝沢真弓氏らと

建築で
白樺派のようなことができないか
話し合い

形が出来たとの証言が
残っています

6分離派

私も実際
白樺の雑誌を復刻したものを

我孫子図書館に
読みに行きましたが、

特に創刊号から
数年分は
今読んでも

ワクワクした面白さが感じられ

時間を忘れて
読み耽ってしまいました
(*^^*)


*参考*
『「白樺」誕生100年 白樺派の愛した美術』
展示図録

調布市武者小路実篤記念館 展示・発行資料
我孫子市白樺文学館

我孫子図書館 (白樺雑誌閲覧)


✴︎

さて、

この話を描くために
色々調べていて、

今まで
少しの情報しか
伝わっていなかった

守の13歳年上
腹違いの兄

山田静
について、

色々な資料をあたるうち、

大阪の綿業会館など 
美しい建築を
幾つも残し

村野藤吾先生の
師匠としても知られる

渡辺節 先生

親友だったことが分かりました

 
IMG_5144
「建築家 渡辺節」  より 右が渡辺節氏

この本の中に
節先生と
静兄の
交流が
少しですが
語られていました

写真を見ると
ちょっと
ファッション?髪型?
が似ていました
(^ω^)


渡辺節先生は
美意識が高く、

粋でちょっと艶があり、

かつ
人を大切にされる
素敵な人物だったようで、

節先生の本を読み
私はいっぺんで
節先生のファンになってしまいました
(*´ω`*)


その節先生と気が合って
遊び回っていた
静兄の東京の青春は
どんなものだったのか…

そしてそれが
後に
建築家となる
山田守に
どんな影響を与えたのか…

点と点を結んで
漫画にする作業は
かなり根気のいる作業ですが
不思議な楽しさに満ちていて、

これからも
頑張って
続けたいと思います



IMG_5149
山田静






次の更新につづきます!

(次回ようやく岐阜篇の最終回です!)


















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